先日、「北の国から」の作者である倉本聡講演会に行ってきた。
「北の国から」は富良野を舞台に、親子愛や登場人物の成長、大自然の中での生活を叙情豊かに描き、2002年「遺言」で幕を閉じるまで21年間続いた国民的人気ドラマ。今でもビデオを借りてきてよく見ますが、冒頭の音楽が聞こえただけで涙腺が緩んでくる珠玉の名作である。 氏は、現在富良野にて、若手の俳優と脚本家の養成のために、「富良野塾を開設、主宰しているそうで、2005年には閉鎖されたゴルフコースに植樹して、同地を自然の森に戻そうとする活動を積極的に展開しているとか…。そういった自然との共生生活を通して、環境問題は人間のライフスタイルの負の遺産、人間はもっと自然に謙虚にならなけれならない…、と結んだ。 お金が第一という社会の価値観、便利さに慣れすぎた人間生活、その有り様を見直せ、という訴えに目からウロコ(ウンコではないぞ)が落ちる思いがしました。久々にいい話に接し、心が洗われる思いがしましたです。 |
最近、かかしというものをトンと見かけなくなりましたが、上山市ではユニークな「かみのやま温泉全国かかし祭り」このほど開催されました。ワタクシも、BT練習の帰りに見物してきましたが、世相を反映したかかしや伝統かかし、広告かかしなど市内外から約二百体が出品された、それは圧巻でした。
祭りは、旧県立上山農業高校の文化祭イベントの一つとして開いたのが始まりとか、 祭りには、小泉純一郎かかしや環境問題をテーマに、空のペットボトルで造った「ぼくらのゴジラワールドかかし」、中には、景気回復を願って「不況を吹き飛ばす百万円札かかし」が登場し人目を引いていました。写真は、ヤワラちゃんかかしだってよ?どう見ても似てないよ〜。 |
「蝉しぐれ」藤沢周平の同名小説を映画化した作品で、舞台は東北小藩の海坂藩、「たそがれ清兵衛」と同じ設定でNKKTVドラマ化されていたのが記憶に新しいところです。ただ「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」と違って、山形弁が使われていなかったのが、ちょっと謎…山形弁は聞き取り辛いから止めたのかもしれないけれど、やっぱり山形弁を使ってほしかった(笑)。
ストーリーは、藩の派閥抗争に巻き込まれた父、その悲運の死を乗り越え、成長する牧文四郎の姿、おさななじみのふくとの切ない恋を描いた珠玉の名作(パンフレット丸写し)とか…w。 余談なりますが、映画「蝉しぐれ」オープンセットが今も保存されていて、見ることが出来ます。場所は庄内の羽黒町(出羽三山で有名)にあり、映画公開を前に観光ツァーも組まれているようです。 屋敷のセットは、1年間風雨にさらしてから撮影開始したそうで、製作者のこだわりを垣間見ることができます。映画から観るか!セットから観るか!ワタクシはこの春、映画より一足先にセットを観てまいりました。映画は全国一斉に10月1日公開だそうですから、10月中には必ず行こうかと思っています。 |
先日岩手県庁に出張で行った折、隣の盛岡地方裁判所内に国の天然記念物に指定されている石割り桜を見学してきました。
石割桜は官庁街どっしりと存在感を呈し、街の移り変わりを見守り続けているようでした。案内板によると樹齢約三百五十年のエドヒガンとか…盛岡地方裁判所の場所には、かつて盛岡藩主南部家の家老の屋敷があり、花崗岩の庭石の割れ目に桜の種が飛んできて芽を出し、成長とともに石の割れ目を押し広げていったものと、書いてありました。その素晴らしい生命力に感嘆!ワレワレ人間も見習わないと…。 雪囲いは取り外されていましたが、満開時期はGWあたりでしょうか? |
戦後生まれだが、うっすらと記憶のあるのが3歳くらいからだろうか?当時は、一握りを除いて周りはみんなビンボーだった。
台所が極端に狭かったため、外で七輪に火をおこすのがワタシの学校から帰ってからの日課だったし、水は井戸水をろ過して飲んでいた記憶が残っている。近所で山羊を飼っている家があって、2合瓶を風呂敷に包んで乳を買いに行ったのも覚えている。 日常風景もさることながら、強く思い出すのはやはり「ひもじかった」ことだろうか。腹が減れば、自分で探す以外方法はなかった。収穫の終わったサツマイモ畑に行けば堀忘れの芋を探したり、売り物にならない子供のチンチンほどの芋を集めてはたき火で焼いた。 山には栗、椎などの木の実があった。川にはハヤ、ドジョウ、ナマズ、ズガニなどがいた。 バナナとか卵は病気にならなければ食えなかったし、森永ミルクキャラメルは年1回の遠足の時の楽しみだった。 履ものはゴム靴だったし、着ているものはどこかに必ずツギハギがあった。冬は足袋だった、そして必ずアカギレが出来たし、寒さの厳しい冬はコタツに入るとシモヤケも痒かった。 今よりも昭和20年代は寒かったような気がする。田圃には2〜3センチの氷が張ると、スケート(長靴に装着する)遊びに興じたものである。 小学校は木造校舎で、まだ奉安殿などが残っていた。悪戯が過ぎてよく教師にひっぱたかれた。クラスはずっと52人から54人だった。このころ給食の脱脂粉乳が飲めないと鼻をつまんで飲む同級生がいたが、私的には苦にせず飲んだものだ。 登校すると朝は朝の掃除、授業終了後の掃除、糠袋で黒光りするまで磨きをかけさせられたものである。日教組の3文字は小学生でもよく知っていたし、勤務評定闘争の先鋒をはしる教師は子供心でもわかっていた。昭和34年に少年マガジンとサンデーが創刊された。表紙は相撲の朝汐とジャイアンツの長嶋だった。40円を握り締め、本屋に駆け込んだ記憶が鮮明に思い出されるから、少年心に一大事件だったことがわかる。 |
「ALWAYS三丁目の夕日」に出てくるような懐かしい写真です。昭和40年ころの山形駅ですが、高校時代毎日通った駅ですから、よけいに懐かしいです。正面から入るとたしか左側が切符売り場、右側が待合室でした。ちょうど下校の電車の待ち時間「ひょっこりひょうたん島」を見て帰るのが常でした。暑い時は、ジュース自動販売機(たぶん粉ジュースだったと思うが…)で、腰に手をあててぐっと一飲みするのが至福の一時でした。当時通っていた列車は、昔も今もデイーゼル機関車ですが、朝夕の通勤通学時間帯は大量輸送可能なSLが走っていた時代でした。
その後昭和41年駅ビルを併設した駅舎に生まれ代わり、さらに山形新幹線開通を契機に今の駅に改築され、さしずめ「孫」ということになり「昭和も遠くなりにけり」かな。 |
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他人事と思ってた退職ですが、現実のものとなると感慨深いものがあります。これから送別会ラッシュが続きますが、長らく未熟な自分を支えてくれた家族や職場の仲間に感謝です(涙)。
梅が咲く頃には、新しい職場での再スタートがはじまります。「人生二毛作」またひと踏ん張りして頑張ろうと思うのでございます。